なんでペーペーの看護師のわたしが、こんなエライさんの集まる委員会に出なくちゃいけないんだよ。
 心の中で思い切り毒づくが、流石にそれをそのまま口にすすほど、向こう見ずじゃない。
 委員会の開始から既に一時間を超えている。しかもこの委員会の出席者の階層で云えば、
わたしは一人だけ、ぶっきぢりの最下層、底辺だ。
 居心地が悪いどころの騒ぎじゃない。
 ……煙草が吸いたい、無性に。
 だけど、無理矢理出席させられた委員会は、まだ当分は終わる気配さえ見せそうにない―――。

 病院ってところはやたら委員会が多い。
 どれくらい多いかって云えば、委員会の叩き売りが出来るくらい多い。
 総会に当たる病院運営委員会を筆頭に、薬事委員会、医療機器購入委員会、安全衛生委
員会、院内感染対策委員会、看護委員会、診療材料委員会、病院広報委員会、倫理委員会、
褥瘡対策委員会等々、数えだしたらキリがない。
 おかしなものだと駐車場運営委員会やHP作成委員会なんて、わざわざ委員会を作るこ
と自体が馬鹿馬鹿しいものまである。
 実際委員会が開催されても一部の重要な委員会を除いては、参加した医者の半分くらい
が寝ていたりする。
「そんなくだらない委員会を開いている暇があるなら、一人でも二人でも患者の相手をし
たらどうなんだ!」
 そう云いたくなることもしょっちゅうだけど、それでも開催しないわけにはいかないの
は「リスクマネジメント」ってヤツらしい。
 平たく云ってしまえば、事故や不祥事が起こった時に「当院はちゃんとした体制をとっ
ており、事故・不祥事は不幸な偶然・結果だ」と云う為のアリバイ作りと云うわけだ。
 お役所仕事って云えばお役所以外の何ものでもない。
 まあうちは確かに市立病院だけどさ。

 勿論、子供(ガキ)じゃないんだから、組織の論理くらい心得ているし、実際役に立って
いる委員会もない訳じゃない。
 それでも、ただでさえ日常業務に忙殺されている医者や看護師を、無理矢理集めてまで
開催する意味の委員会がどれくらいあるっていうんだろう?
 そういう意味では、いまわたしが師長の代理として出席されられている、この「治験審
査委員会」は重要な委員会の部類だ。
 委員長は副院長だし、事務方の代表は一番エライ局長だし「外部識者」というよく分か
らない枠で、市の元教育長まで参加している。
 治験ってのは、簡単に云えば「新薬の実験や薬の飲み合わせによる新しい治療法を見つ
ける為の実験」のことだ。
 実験と云えば物騒に聞こえるけど、うちのような地方病院まで降りてくる治験は実際の
ところ危険性は少ない。既に大学病院や専門病院で第T相(フェイズT)と呼ばれる安全性
を十分に吟味した初期の実験が終わっている薬だけが、第U相試験、第V相試験として持
ち込まれるからだ。
 それでも第U相(フェイズU)だとまだ厚生労働省で正式認可された薬じゃない。である
以上、その薬を使う際には危険性は常に付きまとう。
 だから、治験を受ける前に病院側がその治験の内容を吟味して、危険と判断した治験は
修正を求めたり、そもそも治験を断ったりするわけだ。勿論一度認可を受けたとしても、
その治験が終了するので、この委員会で常に報告義務があったりする。

 もっともわたしら看護師がこの委員会に出ても、正直云って出番はない。
 日常の治療やら手術に関連する委員会ならば、治療そのものしか目に映っていない医者
の先生より、正直わたしら看護師の方がずっと詳しい。だから医師がメインの筈の委員会
が、結局看護師同士の意見交換の場になることが少なくないし、どう見たって医者より患
者に身近に接するわたしらの方が真剣だ。

『リバビリンが入るとインターフェロン単独よりも、脱落例が多くなります。ヘモグロビ
ンが非常に下がりますので、ヘモグロビンが6.7とか8.1とかですね、治験ですので
厳密なヘモグロビン量は正常の人を選んでいるにもかかわらず、かなり減るという症例は
世界中で問題になっております』
『今度は8ミリ、12ミリとプラセボという三群比較の、第U相ということで再度スター
トをして、結果的に第V相のデータとして二重盲検のデータを、プラセボ比較の二重盲検
というデータとして、結果を救い上げる、という形で』

 こんな専門的な話を聞かされたって、右から左だ。
 辛うじて自分の病棟の患者に関する治療行為そのものについては理解できるけれど、そ
れが何を意図したものか、如何なる結果が期待されているのかは、頭の良いセンセイ様た
ちだけが立ち入ることが出来る領域で、看護師は完全な傍観者にしかなりえない。
 それでも無理矢理出席させられるのは、委員会の「定足数」ってヤツのせいだ。
 つまり最低数の参加者がいない限り委員会は成立しないため、数合わせ的に各部署の人
間が集められ、本来の委員が欠席する場合には代理を出すことになっている。
 本来委員である筈のうちの病棟の師長は、研修のため出張中。
 その代理に何故わたしを指名したのか。偶々なのか、それともこの間、またサボって屋上で
煙草を吸っていた罰のつもりか。
 いずれにせよ、冗談の一つも云えない空気の漂う会議室で、二時間近く無言で――無論
煙草をふかすことなど論外で――黙って会議の成り行きを聞いていることしか出来ないの
は、拷問の類に他ならない。
 その不快な気分に、先程から更に追い打ちを掛けているのは、斜め向こうの窓側の席に
座っている夏目の存在だ。

 確か、夏目もこの委員会の委員じゃない筈なので、恐らくは誰かの代理で無理矢理参加
させられたのだろう。
 それだけなら「お前もザマーミロ」で済む話だが、先程来夏目の頭は、ユラリユラリと
舟を漕いでいる。

 ……あの野郎、完璧に寝てやがる! 
 怒りがフツフツと湧き上がってくる。
 このテの委員会では余程派手な寝方でもしていない限り、参加者が寝ていても咎められ
ることはない。実際別の委員会に出席した場合、いつ自分が逆の立場になるか分かったも
のじゃないからだ。
 だけど、それは立場の強い医師の場合に限ったこと。わたしら看護師が「委員会で思い
切り寝ていた」なんてことになれば、後で師長からどんな大目玉を喰らうか知れたもんじ
ゃない。
 こっちがさっきから欠伸を必死に堪えているのに、あの野郎!
 足が届く範囲ならば、机の下で向こうずねを蹴飛ばしてやるところだけど、とても届く距離じゃない。

 どうやってあの野郎に、この拷問を共有させてやろうか。
 そんな算段をして気を紛らわせているうちに、ようやく前の先生の報告が終わったらしい。
 ……やれやれ、やっと後一人か。 
 手渡された異常に分厚い資料がようやく最後の報告まで辿り着いたのを確認して、僅か
に安堵の溜息をつく。どうやらわたしの忍耐の限界に到達する前に、この長ったらしい委
員会も終わってくれそうだ。

 だけど、この日最後の議題である「治験終了の報告」はすぐには終わらなかった。
 そしてわたしは―――後で師長から大目玉を喰らうことになった。

「―――そろそろ落ち着いたか、谷崎」
 たっぷり時間をかけたその一本を吸い終わろうかというところで、夏目が話しかけてくる。
「―――礼は礼として言っておくよ。助かったよ、すまなかったね」
 紫煙と共に大きな溜息を吐き出しながら、今日ばかりは素直に夏目に感謝しておく。

 あの時、夏目に会議室の外に連れ出されなかったら大目玉どころでは済まなかった可能
性が濃厚だ。なにせ副院長だけでなく、事務方の局長、それに市の元エライさんまで雁首
揃えている場だ。
 あのまま感情の赴くままに口を開いていれば、辞表を書く手間すら不要になっただろう。
「アンタの方は良いのかい? こんなところで時間潰しなんてしてて」
 院内連絡用のPHSで呼び出されて委員会を退席した癖に、そのまま屋上まで人を連れ
てきて、いつものように咥え煙草をして手すりにもたれかかっていることを問い詰めると、
この不良医師は、とんでもないことを自白しやがった。
「ああ、ありゃ。嘘だ」
「―――はあん?」
 思わず間抜けな声を洩れでてしまうけれど、夏目は悪戯を見つかった子供のようにバツ
が悪そうな態度で、投げやりな具合にトリックを暴露する。
「事務方からな、普段使ってないPHSを失敬してな、ほら、こうやって」
 そう云って、白衣の中からもう一台PHSを取り出して実演してみせる。右のPHSから左の
PHSへ。とんでもない自作自演だった。
「―――呆れた。アンタ、ほんとにそれでも救急関係の医者かい?」
「救急からの連絡はちゃんと分かるようにしてあるさ。
 だいたい委員会なんて全部が全部、最初から最後まで出ていられるかっての」
 身も蓋もないことを云いやがる。ま、それに関しちゃ、全くもって同感だが。
 二本目の煙草に火を点ける。
 それからまた暫くお互い無言のまま、紫煙をたなびかせる。

 静かだった。
 わたしたちだけが、この世界から隔絶されたような錯覚に襲われるほどに。
 空を見上げる。
 どこまでも澄み切った空の蒼が、いまのわたしにとっては何かの嫌がらせのようにしか、
思えなかった。
 肺まで吸い込んだ煙が、胸の中にわだかまるもやもやを、更に攪拌させる。
 ………ああ、やっぱダメだ。
 一度思いっきり吐き出さないと、やっぱり気が済みそうにない。
 それに、認めたくはないことだけど、この件に関して吐き出すことが出来る相手と云えば、
いま隣で高校生のガキのような仕草で煙草を咥えているコイツくらいしかいないのだから。
 あのさ、と口を開こうとする私の機先を制する格好で、だけど夏目の方が先に声を掛けてきた。
「谷崎、オマエ、戎崎のことを散々ガキだガキだって云っておきながら、お前も随分とガ
キなトコがあったんだな」
 裕一のことをガキだガキだって云ってたのはアンタの方だろ?
 そう思いつつも、
「―――ああ、自分でも意外だったよ」
 そもそも普段ならそんな言葉を聞いた瞬間に蹴飛ばしてやるところだけど、今日ばかり
は素直に認める。いや、認めざるを得ない気持ちだった。

 自分自身に関わる理不尽なことなら別だ。
 だけど、今回のような直接関わらない理不尽な事態に対して、まだこんなにも激しく憤
れる自分が、ほろ苦くて、それでも何処か………。
 若い頃はもっともっと色んなものに対して、そう、自分を取り巻く世界のありとあらゆ
る理不尽に対して、激しく憤っていた。
 わたしが世間一般で云う、所謂「若気の至り」に走った理由の主たるものがそれだ。
 だけど歳を重ねるに連れて、その理不尽さを受け入れるようになっていた。
 いや、正確にはそうじゃない。その理不尽こそが社会を成り立たせている構成要素であ
ることに、否応なく気付かされたんだ。
 世界のそんな仕組みを理解し、受け入れることが「大人になる」ってことなんだろう。
 それは同時に、社会の至るところにある理不尽を受容し、諦めるということでもある。
 だけど今回の件ばかりは、素直に諦めるにしては、あまりにも理不尽が過ぎた―――。
その治験薬は末期の肺癌患者を対象としたものだった。
 しかもその骨転移段階まで進んだ、現代医学ではほぼ「お手上げ」とされる状態の患者
の、疼痛を抑えることを主眼に置いた薬だ。決して患者の治癒を主目的とした薬ではない。
 第U相試験として全国の病院で治験が試みられた。エントリーした被験者は何十人もいた。
 この若葉病院でエントリーした患者もその一人だった。

 そしてその患者――彼女にはその薬が効いた。劇的に効いた。
 しかし彼女とは対照的に、対象症例が症例なだけあって何ら不思議はないのだけれど、
エントリーした患者は次々と亡くなっていき、遂には二人だけとなった。
 それでもこの治験は続けられた、二年もの間。
 だけど更に一人の患者が亡くなったことで―――遂に製薬会社も厚生労働省もある判断
を下した。


 この治験の担当医師である三島先生の、委員会での発言が脳裏でレプリイされる。
『―――そもそも端的に云わせて頂ければ、この薬がこんなにもよく効いて患者が生存し
ているということが、現実離れしてるんですよ。
 肺癌があそこまで骨転移しているならとっくの昔に亡くなっていても不思議はない筈な
のに、症状が薬を投与しだした時点でピタリと転移も止まり、疼痛も麻薬なしで耐えられ
る程度に軽減しているんですから。
 我ながら誤診じゃないかって、何度も何度も検査して結果を確認しましたよ。治験を実
施している製薬会社には勿論、大学の教授にも資料を送りました。で、結局戻ってきた答
えはなんだったと思います?
 揃いも揃って“奇跡だ”の一言ですよ』
「巫山戯るなっ!」
 委員会の場では、無理矢理抑えざるを得なかった言葉を、そのまま吐き出す。
「奇跡を起こした薬が、いや奇跡を現に起こしつつある薬がそこにある。
 なのに、なんでその薬の投与を中止になんか出来るんだよ!
 製薬会社も! 厚労省も! そしてあんたら医者も!!」

 目の前の夏目が全ての元凶であるかのように、ありったけの憎悪を籠め睨みつける。
 理不尽な筈のわたしの怒りを、だけど夏目は黙って、煙草の灰をポンと一つ、静かに屋
上の床に落とすだけで受け止める。
 以前の夏目ならば「そんなこと、俺の知ったことか」とでも吐き捨てて、会話すら成立
しなかっただろう。
 だけど、今の夏目は私の完全な八つ当たりさえ、黙って受け入れている。
 ―――これが文句なしの“いい性格”をしていたあのクソ医者だとはね。
 人ってどう変わるのか、本当に分かんないもんだねぇ。

 そんなことをぼんやりと考えているうちに、私より一足先に夏目は二本目の煙草を吸い
きっていった。
「―――さっき、三島先生が云った通りだ。
 今回の治験薬と彼女の症状が改善されたことに因果関係は認められない」
 吐き出されたのは、どこまでも事務的で、淡々とした声。
「なんだ?
 アンタまで薬が効いて彼女の症状が止まったわけじゃないって云ってるのかい?」
「医学上のデータだけを見ればそういうことになる。
 実を云えば、全くの専門外だが俺もカルテを見た。守秘義務違反とか言うなよ? 見た
くなかったが、データにミスがないか確認してくれって無理矢理見せられたんだからな。
 ……まったく。こんな話、他の病院の人間にしたらうちの呼吸器科、馬鹿にされるぞ」

 流石にこの時ばかりは苦々しく吐き捨ててから、
「結論だけ云っちまえば、厚労省が“この治験薬では患者の症状改善が認められない”っ
て判断したのも決して間違ってねえし、薬の製造自体の許可を止めるのも当然だ。全く効
果がないと“確認”された薬なんだからな。
 だいたい製薬会社だって骨転移した末期肺ガンの患者の症状を抑えるなんて、そんな奇
跡みたいな薬を開発したんだったら、大儲けは間違いなしだ。血眼になって“奇跡”の原
因を突き止めようとしたに違いねえんだ。
 さっきの委員会じゃ、企業の誠意で延長したとかなんとか云ってたが、それが猶予期間
の二年の正体だよ」
 益々こちらの胸糞が悪くなる解説をしてくれやがる。
「だから諦めろっていうのかい?
“この数年、貴女の命を繋いでいたと思われていた薬は、実は全く効かない薬でした。
 つきましては、一般的な有効性は確認されていますが、貴女に効くかどうか分からない
治療法に切り替えます”って?
 アンタ、本当にこの治験薬の投与を止めても彼女の症状が悪化しないって思ってるのかい?」

「―――――――」
 夏目が黙りこくる。
 相当性格が捻くれ曲がっている夏目だけど、こんなところだけは実に分かりやすい。

 でもこの治験を受けていた患者は、三島先生の遠回しの「死刑判決」も受け入れたそうだ。
『寂しいですけれど……』
 命を繋いできた薬を断たれることになった彼女は、弱々しい笑顔を浮かべ、
 それでも気丈に答えたそうだ。
『仕方ないですね』って。

 許せなかった。
 叫びたくなる衝動を抑えきれなかった。
 だけど、わたしの憤りの本当の対象は、委員会の参加者にじゃない。
 掌の中に転がり込んできた奇跡を、むざむざ手放そうとするこの患者本人に対してだ。

 無論伊達に何年も看護師をやってない。
“ただ生きいてること”が必ずしも幸せじゃないことは十分すぎるほど知っている。
 だからこんなのは患者とは直接関係のない、部外者の勝手な想いだ。
 ましてこの患者の症例は、骨転移した肺癌。
 完治など望むべくもない。
 そしていくらこの治験薬で疼痛が和らいだと云っても、それでも健康な人間からすれば、
想像を絶する痛みを抱えながらの生活だろう。
 それだけ身体がキツければ、心が挫けそうにもなるだろう。
 理不尽な現実になんら抵抗することなく、そのまま受け入れてしまいたくなることもあ
るだろう。
 それでもわたしは彼女に最後まで戦い抜いて欲しかった。 
 他の患者がどれだけ望んでも手に入れられぬ“奇跡”を、彼女は手中にしていたのだから。

「夏目。もしあんたが当事者だったら。いや―――」
 胸を掻きむしりたくなるような強い衝動を抑えきれず、つい同意を求めるように問い質してしまう。
「この患者が里香だったら?
 いや、あんたの、いや“あんたの友達の”奥さんだったら、諦めきれるのかい?」
 だけど、口に出してしまった次の瞬間「しまった」と猛烈な後悔に襲われる。
 流石にそれだけは訊くべきじゃない。訊いてはいけないことだった。
 だけど、一度口から零れ出た言葉は決して虚空に掻き消えてくれたりはせず、夏目の鼓膜を揺らしちまう。

「―――――――」
「―――――――」
 再び私たちの間に沈黙が舞い降りる。
 すまなかった、今の質問は忘れてくれ。
 そう云おうと、そう云うべきだと分かっているのに、それでも心の何処かに夏目の答え
を聞きたいと思う自分がいるのか、咄嗟に言葉が出てこない。
 更に時計の秒針が一回りする程の時間が流れ、わたしが諦めかけた時に夏目がボソリと
呟くように云う。

「…………諦めるかよ」
 ゾクリ、と背筋に電流が走る。
 修羅場はそれなりに潜ってきたつもりだけど、魂の底から響くようなその言葉に思わず
怖気をふるっちまった。
「…………諦めるかよ、諦めてたまるかよ!」
 剥き出しの感情そのままの言葉は、まるで獣のようだ。

 その瞬間、わたしは会ったこともない夏目の奥さんに猛烈な嫉妬を覚えた。
 別にわたしがコイツ(夏目)に惚れたはれた、って話じゃない。
 それは純粋に――――“一人の女”としての嫉妬だ。
 死んじまってもなお、一人の男からこんなにも激しく愛されている。
 それは女として至上の喜びでもあり、
 そんな男と巡り会えたこと自体が、彼女にとって―――
「あれ、亜希子さん? またこんなところでサボってるんですか? って夏目先生も!
 あんまり待たされるもんだから、もう里香、カンカンですよ!」
 聞き慣れた少年の声で、張りつめた空気が融解する。
「やべ、もうそんな時間かよ!
 なんでPHSに連絡……って、チッ。さっき電源まで切っちまってたのか」
 裕一の声に、夏目はまるで遅刻寸前で校門に駆け込む学生のような必死さで、階段を駆
け下りていく。
 先程の獣のような雰囲気は―――綺麗サッパリ掻き消えていた。

 ホッとしたような、残念なような、そんな不思議な感情が揺らめくわたしの前で、里香
の検査に当然のように同伴してきた裕一は露骨にザマーミロって顔をしている。
 やれやれ。
 端から見れば似た者同士以外の何者でもないの癖に、何を近親憎悪している事やら。

「最近の里香の具合はどうだい?」
 そう軽く水を向けてやると、裕一は喋る喋る喋る。
 学校でのこと、家でのこと、この夏に少しだけ足を伸ばして裕一の親戚の家がある南島
町の海に行ったこと。
 普通に健康な身体をしていれば、誰もが経験しているようなささやかなエピソード。
 だけどそれが里香にとってはどれだけ貴重で、どれだけ大切で、どれだけ嬉しいことなのか。
 里香と出会う前は、自分が何者なのか、自分が何をしたいのか、まるで分かっていない、
ただのクソガキだった裕一が、いつの間にか里香と同じ視点で物事を見られるように。
 ―――まったく。
 二人の出会いのきっかけを作ったのが他ならぬ自分だってことも忘れ、嘆息する。
 たった一つの出会いが、ここまで人を変えることが出来るんだね―――

「本当に今日はどうかしたんですか、亜希子さん?」
 気が付けば目の前にあるのは、裕一の不思議そうな表情。
 チッ。
 裕一にまで気付かれちまうなんて、我ながら今日は本当にどうかしてる。
 なんでもないよ、と云おうと思っていたのに、ついまた口を滑らせてしまったのは我な
がら情けない。

「―――裕一、あんた、奇跡ってヤツを信じるかい?」
 唐突なわたしの問いに、裕一は戸惑ったような表情を浮かべる。
 そりゃ、そうだ。
 こんなこと、唐突に云われたら、わたしだって戸惑うしかない。
 だけど、裕一は―――


「―――信じますよ。里香のためだったら、どんな奇跡だって」


 キッパリと、一片の迷いも衒いもなく、裕一はわたしの質問の意図を読み取って答えた。
 その表情は以前のクソガキのものではなく―――守るべき者を見つけた、紛れもない一人の男としてのそれだ。

 ああ、と身も蓋もない感情が心の中を占めちまう。
 本当にあんたたちが羨ましくて仕方ないよ。
 里香。
 そして、夏目の奥さんよ。
 アンタ達はアンタ達で、しっかりその手に掴んでいたんだ。
 こんなにもアンタたちのことを愛してくれる、こんなにもいいオトコを。
 それこそが―――アンタたちが手に入れた奇跡ってヤツだったんだね。


(終わり)


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