淫らな月がのぼる空 〜君が笑うと嬉しくて〜

伊勢の二人の少年と少女との物語を覚えている者は、幸せである。
心豊かであろうから。
私達は、十七歳の時の記憶を印されてこの世に生きているにもかかわらず、
思い出すことのできない性を持たされたから……。
それ故に、戎崎裕一と秋庭里香の語る、次の物語を伝えよう。

――――学校から町に向かって下に伸びる坂を、
僕が里香を乗せた二人乗りの自転車が、多少軋みながら下っている。
下り坂だから無理にペダルを漕がなくても、景色がどんどん流れていく。
傾いてきた太陽はじきに夕焼けになり、僕達の暮らす町を赤く染めるだろう。
頬に当たる風を感じながら、僕は後ろに座っている里香に話しかけた。
「……なぁ、里香」
「なに?」
僕が声をかけると、たいして気のこもっていない風の返事が後ろから返ってくる。 ……ここ一週間ほど、里香が冷たい気がする。冷たいというか、態度が素っ気ないのだ。
この帰り道で交わす他愛ない会話も、ここ数日寂しくなりがちだった。
その前なら、まるでキャッチボールをするようにお互いの言葉で話せたけれど、
ここ数日は、こっちが投げたボールを向こうが拾ってくれないような有様だ。
キャッチボールが成り立たないのなら、僕もボールを投げたくなくなる。
……僕と里香は同じ病院の中ではなく、違う学年の違うクラスで日常を送っている内に
どこか少しずつズレてしまってきたんじゃないかと、とりとめもなく不安になってしまった。
本当は一日でも多く、里香と楽しく生きていたいのに……
だから、腹に重石を抱えたような気分ででも僕は里香に切り出した。
そんなことはないとわかっていても、やっぱり里香と僕は違う人間なのだから。
「何かクラスであったのか? ……お前のことだから、何もないとは思うけど」
「べつに。 何もないよ」
無駄だとは思うけれど、もう少し聞いてみる。
「本当かよ? 最近、里香なんか変じゃないか」
「……だから、何もおかしくなんかないわよ」
「そっか……」
案の定、里香は素っ気ない態度でスルッと流してしまった。
いつもなら、態度は悪くてももっと話してくれたのに、これじゃあんまりだ。
僕はいつの間にか、里香を怒らせるようなことを何かしてしまったのだろうか?
僕は里香のことをわかっていると思っていたのに。
そう考えると、なんともいえない空しさにも似た感情が僕の胸のあたりに込み上げてくる。
「……俺、なにかしたかな? 里香が機嫌悪くするようなこと」
独り言で嘆くように僕が言うと、里香は明らかにムッとしてこう返してきた。
「そんなの知らないわよ。 自分で考えなさい」
ここまで言われると、僕にも考えがあった。
言ってやれ裕一。セクハラかもしれないけど言ってやれ。
「……里香」
「ん?」
「もしかして最近は、女の人が調子悪くなる日だったりする?」
ガツッ……
ああ、殴られたさ。
こっちは自転車の運転をしているのに、怒る時には容赦ないのが里香だ。
僕が言ってから三秒と経たない内に、僕の後頭部は里香のグーパンチをもらっていた。
それにしても痛い……
そして、痛みに耐えて自転車を漕いでいる内に、
僕と里香を乗せた自転車は長い坂を下りきろうとしていた―――
―――どんなに邪険にされても律儀な裕一に自分の家の前まで送られて、里香は帰宅した。
ただいまと言って玄関に入ったが、返事はなかった。
母親との二人暮らしで、自分が帰ってきたときに誰も迎えてくれない家の寂しさには、
なんともいえないものがあるなぁ、と彼女は思った。
数ヶ月前は不特定多数の人が蠢いている病院で暮らしていて、
何十分か前には同年代の人間がたくさんいる高校にいたのだ。多少のギャップは感じてしまう。
手を洗いに入った台所のテーブルの上に、
『おかえりなさい里香。今日の学校はどうでしたか? 夕食置いておくから暖めて食べてね』
と書かれたメモ用紙が添えられた蚊帳があるのを見て、
今日は母親の帰宅は深夜になると言っていたな、と彼女は思い出した。
夕食はいつにしよう、とどうでもいいよな事を考えて
身体の奥で燻っている気持ちをごまかしながら、彼女は階段を上がり、自分の部屋の戸を開けた。
ガララッ……
古びた引き戸の音に、彼女は自分の落ち着ける場所に戻ってきたことを知る。
窓ガラスから差し込んでいる夕焼けの赤い光に、彼女の質素な部屋は染められていた。
少しホッとしながら、彼女は教科書やノートが詰まっている鞄を自分の机に置いた。
「はぁ……」
すると、彼女の小さな口から溜め息が漏れた。
次に彼女は簡単な部屋着に着替えると、
すっきりとした色の布団がかかったベッドに向かって、自分の身体から力を抜いた。
艶々とした長い髪と、すらっとした身体が一つの絵のような構図でベッドの上に横たわる。
そして、ベッドに倒れ込んだ彼女は身体をグウッと伸ばし、
枕に横に頭を押し込めるようにして切なげに顔を歪ませている。
大きくて黒い双眸を潤ませながら、彼女はやりきれない思いで考えた。
―――なんで自分は肝心な時に素直になれないんだろう?
本当は、裕一と一日でも多く仲良くしていたいのに。
下らないことでいつでも笑い合っていたいのに。
自分がおかしな意地を張ってしまうからこんなことになってしまうのだ。
彼のことが、大好きで大好きで仕方ないのに。
身体のことがあるから、本当にたまでいいから、思い切り私を抱いて欲しい。
でも、自分からはまさかそんなことは言い出せないし、彼も自分をさほど求めることはしない。
というか、出来ないタチなんだ。優しいから―――
そんな風に、彼女は自分の部屋に入ってから何分も悩んでいた。
「ゆういち……」
自分の口からふと、その名前が漏れたことに、自分でもこれは重症だなと顔を赤らめてしまう。
顔が赤く火照ってきて、見慣れた自分の部屋の地味目な色彩さえも甘く扇情的に見える。
そこで思い出すのは、溝を埋められなかった今日の帰り道でのことだ。
『もしかして最近は、女の人が調子悪くなる日だったりする?』
自分が原因だとわからず、あんなことまでいうヤツに何で私がこんなに悩まされているのだろう……?
彼女は、自分自身の恋煩いをひどく恥ずかしく思いながら、
枕に顔を埋めたままベッドの上で寝返りを打った。
それでも切ない気が紛れることはなく、だからといって瞼を閉じると、
やはりそこには彼の姿ばかりが浮かんできてしまう。
そこにいる彼は、嬉しそうに少しずつ彼女に近づいてくる。
彼女は恥ずかしそうに身をよじるが、やや強引な彼に抱きしめられてしまった。
彼女のほっそりとした身体は、彼のまぁまぁ太い腕の中に収まってしまう。
彼の顔を見上げると、ありえないくらい位優しい目をしている。
空想の中の彼女は、ただただそんな風に彼に抱かれ続けていたかった。
現実の彼女は、ベッドの上で子猫のように身体を丸めて、その空想に浸っている。
「はああ……っ」
時たま、悩ましげで可愛い溜め息が彼女の口から漏れることもある。
(やだ……っ……身体が……)
そしていつの間にか、持て余していた感情が彼女の身体を火照らせていた。
女の子の大事な部分にじんわりと熱が集まり、何かが足りない切なげな感覚を生み出している。
明らかに、彼のことを想っていたためにこうなってしまったのだ。
もう、耐えられそうにない。
彼女は躊躇いながらも自分の手をソコに伸ばそうとする。
けれど、本当にその欠乏感を埋められるのは、
彼の心と体の温もりだけだと彼女は嫌と言うほど知っていた。
「っ……ん……」
ショーツの中に右手の指が少しずつ入り、微かに濡れたソコに軽く触れる。
くちゅっ……
ちょうどその時だった。
ピンポーン
一階でなった機械的な音の呼び鈴に、彼女はビクッと身体を震わせた。
驚いて行為を止めてしまった後は、心をスルスルと日常に引き戻されていく。
まるで夢が覚めるように、窓のカーテンが閉じられるように、彼女の欲求は霞んでいった。
「………」
彼女は仕方がなく、火照りをたくさん残したままの自分の身体をベッドから起こし、
面倒に思いながらも階段を下りて玄関へ向かった。
そのとき、太陽はもう微かな赤みを残して沈みかけていた―――

続く。


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