コンコン
僕はあまり音を響かせないように、引き戸を叩いた。
消灯後の病院。
廊下の端でぼんやりと非常灯が光っているのが見える。
「いいよ」
僕は音を立てないようにドアを開け、部屋の中に滑り込む。
「お帰り」
僕を出迎えるのは手術を今週末に控える少女。つまり里香だ。
「ただいま」
布団の中で里香は寝ている。
普段の快活ですぐにみかんが飛んでくる空気とは全く違うものが漂う。
里香の調子は全く良くない。
僕の目の前で倒れてからずっと面会謝絶。毎日少しだけ会ってるけど、こんなことをしていいはずがない。それでも僕がここに来たのは、里香が望んだからだ。
「裕一、座って」
「うん」
僕は面会者用の丸椅子を引き出すと、椅子を持って動く。
そして窓側に腰掛けると、カーテンを開けた。
「綺麗だね」
「ああ」
里香が倒れたときに、新月だった月は、もう半月になって淡く白い光を発していた。
「ねぇ裕一抜け出して大丈夫?」
「大丈夫だよ、心配すんな」
実際はあんまり大丈夫じゃない。
今日の当直は亜希子さんだし、それなりに元気な人が多い東と違って、何かあった時のために西は見回りの人が多い。
そもそも僕は昨日も病院抜け出して、あんなことをしてしまったのだから。
もし見つかったら、ただじゃ済まないだろう。
それでも僕はここに来るのを一瞬も躊躇しなかった。
昨日のあの騒ぎの後、亜希子さんから渡された手紙にはこう書かれていた。
[明日の夜、私の部屋に来て欲しい]
里香の小さく丸っこい字でそんなことが書いてあった。
「ねぇ、裕一」
「な、何?」
「一緒に寝よ」
里香は唐突にそう言って、布団の端を少しだけ上げる。
「わかった」
多分これが昼だったら、僕はあわあわと慌てていたことだろう。
でも今はそんなことはどうでもよかった。
なによりも今にも消えてしまいそうな目の前の女の子を離さない方がよっぽど大事だった。

布団の中に潜り込む。
いくら病院のベッドが大きめといっても、二人で入ると少し小さい。
「裕一、暖かいね」
「ああ」
里香の体は冷たかった。
普通ずっと布団に入ってれば、もっとほわほわっとした感じになるはずなのに、里香の体はひんやりとしていた。
「里香……その、手を握っていい?」
「うん」
これまでならすぐにエッチ、バカって言ってきただろうに、今の里香はまるで幼女のように素直だった。
多分それだけ不安で辛かったんだろう。
それなのに僕は自分だけが辛いような勘違いをしてあんなことをしてしまった。
僕は凄まじい自責の念に襲われる。

もういい、全てを話そう。

こんな奴が里香の隣に居ていいわけがない。
「里香、その、俺さ」
とつとつと話始めた僕を、里香は何も疑ってないような目でこっちを見る。
同時に亜希子さんの顔が脳裏に浮かぶ。

今、僕は何をしようとしていた?
結局自分のことしか考えずに里香に負担を懸けようとしてなかったか?
「裕一?どうかした?」
頭の中で錯乱していた僕を不審に思ったのか、里香が冷たい視線をぶつけてくる。
「い、いやなんでもないよ」
「そう?まあいいや」
今日の里香はやけに淡泊だ。まるでもっと大事なことがあって、瑣事は気にしていられないという心がなんとなく感じられる。
僕はその予感が完璧に的中していたことを知らされる。
「ねぇ裕一……私のこと抱いて」
「は?だ、抱くって意味わかってる?」
僕の言葉に里香はコクりと頷く。
顔が白かった顔が、少し赤くなっている以外は平常にみえる。
「な、何でいきなりそんなこと……」
「裕一のこと覚えておきたいし、裕一にも覚えておいてほしいから」
でもそこで発された言葉はまるで遺言のような口調だった。
「はぁ?なんだよそれ」
「だって、来週には手術だし。もしかしたら今が最後かもしれないんだよ?」
里香は僕よりよっぽど現状を理解してる。
分の悪い大手術。当然そのままってこともあるだろう。
ただ僕は、そんなの認めたくなかった。
認めたらそのまま逝ってしまいそうな気がしたからだし、そんなのを認めるほど僕の心は強くなかった。
「何でそんなこと言うんだよ。夏目だぞ?あいつが針使ってるとこ見たことあるか?本当に機械みたいなんだぜ。その夏目が主治医なんだ。そんな失敗するわけないだろ」
結局人頼りに、安心させるしかない自分自身に激しい嫌悪を感じる。
本当にこんなに大事なことなのに人頼り。
情けないにもほどがある。
「でも怖いんだから仕方ないでしょ。もう裕一とも話したり、歩いたり、出来ないかもしれないんだよ」
里香の声がだんだんと大きくなってくる。それは里香の心の中に溜まっているものを放出しているようで僕はただ気おされていた。
「そんな……」
「私は裕一を縛りたくない。裕一に私が死んだ後も誰とも仲良くならないでいてほしいなんて思わないし思えない。でも裕一の中から私が消えちゃうのもやだ。だから裕一の初めてをちょうだい」
里香はそういうとニッコリと笑った。いや笑おうとして、泣いていた。
僕はもう頷くしかなかった。
体を起こし、里香と向き合う。里香が目を閉じるとともに口付けをした。







やっぱり疲れたのだろう。
情事の終わりと同時に寝てしまった里香の服を直し、後始末してから部屋を抜け出す。
そろりそろりと足音を立てないように、動きつつ東から西病棟へと動く。
とりあえずここを渡れば万が一見つかっても言い訳できる。そう一息つこうとした瞬間、僕は自分の甘さを呪うことになる。
渡り廊下の真ん中で亜希子さんが仁王立ちしている。当然その目は僕を見つめていた。
「お帰りクソ餓鬼」
「た、ただいま亜希子さん」
やばい、自分でも声が震えているのが分かる。これは里香より先に死んじゃうかもしれない。
普段なら笑えるその想像が、とてつもない現実味を帯びて襲ってきた。
そうだ、ついさっきまで僕の両手の中にあったあの温もりは、もう消えてしまうかもしれない。
一気に体から力が抜ける。
僕は亜希子さんの目の前でへたり込んでしまった。
あはは、やだな、これじゃ亜紀子さんに怯えて腰が抜けたみたいじゃないか。
亜希子さんがこっちにくるのが分かる。
あ、殴られると思った瞬間に来たのは、亜希子さんに抱きかかえられた感触だった。
「裕一、よく頑張った」
亜希子さんは泣いているらしい。駄目だよ亜希子さん。亜希子さんが泣いていたら、僕まで泣いちゃうじゃないか。


「あんたさ、本当、よく頑張ったよ」
僕と亜希子さんは屋上に居た。
もう月は西の空に沈みかかっていて、東からは大きな光が映えてくる。
「基本的にさ、死が間近にある人の周りってさ、人がいなくなるんだよ。
本人より、周りが先にその重圧に負けちゃう。いくら好きで大事な人でも
だんだんと放れていってしまう。逆に精根尽き果てるまで、精根尽き果て
てもずっと一緒にいる人もいる。どっちが良いとは私には言えない。自分
を守って、離れるのも、
自分が生きる力を全て使って一緒に居るのもどっちがいいとも言えない。
里香もそれで悩んでたんだよ」
「どう言うことですか?」
「あんたさ、好きな子が自分のために夢も希望も前途も捨てて尽くしてくれるのを受けいれられる?
自分はいつ死んじゃうのかもわからないのに?」
「それは」
「まあ聞きなって。今の里香とあんたはその瀬戸際だ。もし手術が上手くいって
もそれで完治するわけじゃない。一生付き合っていかなきゃならない病気だ。
勿論今の里香の病気で60まで生きた人だっている。里香もそれくらいまで生き
るかもしれない。でも20で死ぬかもしない。長く細い糸の上を里香は歩いてい
かなきゃならなくなる。あんたはそれに一生付き合う覚悟はある?」
「あります。里香は絶対に俺が守ります」

僕の胸の中で死にたくないと泣いた里香。僕は里香のためなら、牛馬のように働き、神様にだって、仏様にだって逆らおう。
僕がこういうと亜希子さんは笑ってこう言った。
「なら、あんたの選択は最高だ。病気に立ち向かうのに一番大事なのは気持ちだよ。
里香は今、これまでの中で一番生きたいと願っている。そうだろ?あんだけ胸の中で
生きたいと泣かせて、そのまま抱いてやったんだ。」
どうやら亜希子さんは、僕たちが何をしているのか全てを知っていて放置していたらしい。
「好きな人に抱かれるっていうのは女にとっちゃ最高の幸せだからね。その中で
あんたは励まし続けた。里香は必ず生きて帰ってくるし。あんたがその気持ちを忘れない限り
、逝かないよ。負けるなよ、クソ餓鬼」
亜希子さんは笑ってそういうと僕の胸を軽く殴り、屋上から出て行った。
多分僕を励ましてくれたんだろう。僕の心はそれでも里香を失う恐怖に震えていたけど、
それでも少し気構えが出来たような気がした。


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