はじめてのバレンタイン


僕と里香は、今日も学校をいつも通り終えて、一緒に帰っていた。
濃い紅茶の色をした空につむじを向けて、
里香の漆黒の髪は、優しいだいだい色の光をきらきらと反射させる。
一歩歩くごとにさらさらと揺れるそれを背中に流し、彼女は、傍らで自転車を引いている僕の名前を呼んだ。
「……裕一」
「ん?」
そろそろ里香と別れる場所に来たな、などと考えていた僕は、
ちょうどその分かれ道に差しかかったせいで立ち止まったらしい里香に、息を合わせて足を止める。
帰り際の挨拶は、毎日のことだからだ。
ボロい自転車をギッっという音を鳴らして止め、里香に向き合う。
「明日、楽しみにしててね」
沈みかけの太陽を背負ってそう言う里香の顔は、眩しかった。
目を細めながら、僕は頭の中で日付を確認する。
「明日、明日……えーと、あぁ!」
真っ先に思い浮かんだのは、街中ラッピングされた光景、という印象だった。
そう、この時期になると、例の行事で世間は大にぎわいなのだ。
もっとも、伊勢は、東京にあるような都会の街みたいには浮かれはしないし、
里香と出会う前の僕にとっては、大きな意味を持つ行事ではなかった。
「俺も、楽しみにしてるよ」
だが、里香にとっては、退院して、高校に通い始めてから、初めて迎えるバレンタインデーなのだ。
そして、その彼女の隣にいるのは僕だ。
だから僕は思わず、ニヤニヤした微笑を浮かべてしまう。
「裕一、ちょっと気持ち悪いよ」
俯き気味にしているせいで、垂れた髪が里香の顔を僅かに隠す。
しかし、目や口元が僕と同じようににやけているのを、僕は見逃しはしなかった。
どうやら、口では気持ち悪いなんて言う里香も、本当は嬉しくて仕方ないらしい。
本当に明日が楽しみだなぁと思いながら、僕は里香と別れの挨拶を交わして、
自分の家への帰路についたのだった。


……翌日、不覚にも僕は寝坊した。
里香が来てくれるだろうという予想をしていたにも関わらず、そろそろお昼だという時間になって、ようやく目覚めたのだ。
何か、母親以外の人気を感じて台所に下りてきた僕が見たのは、 エプロンを身につけて台所に立つ里香だった。
その姿は、何とも言えず僕の男心をくすぐるものだった。
「あー、里香、おはよう……」
とはいえ、寝坊してばつが悪い気分が先行してしまう。とりあえず、僕は里香に遅いおはようをした。
布団の中に全部置いて来れずに引きずってきた眠気は、すっと覚めていくようだ。
「おはよう、裕一」
里香は返事はしてくれたが、キッチンに立ったまま、軽く上半身を捻って挨拶をした。どうやら、チョコ作りで忙しいようだ。
「裕一ったら、なんでこんな時間まで寝てたのよ? せっかく里香ちゃんが来てくれてたのに〜」
里香の隣に立っていた僕の母は、体ごとこちらに向けて息子を軽く叱る。
母さんのことだから、当然のように里香を家に上げたのだろう。
しかし、里香が来ていたというのは予想の範囲内だったけれど、
母親の言葉から察するに、少なくても一時間以上は待たせてしまっていたらしい。
さすがに僕は多少の罪悪感を感じた。
「いいんです。裕一を無理に起こしたら悪いから」
「そう? ホントに里香ちゃんは良い子だねぇ。つくづく、ウチの息子には勿体ないよ!」
「ふふ、そんなことないですよ。蓼食う虫も好き好きって、言うじゃないですか」
「ホント、里香ちゃんはお上手ねぇ」
……里香と僕の母さんの仲がとても良いというのは、僕にとっても良いことなのだろう。
どうやら今まで母さんは、里香の手伝いをしていたようだった。
「里香ちゃん、他に何か手伝うことないかしら?」
「あ、大丈夫です。もう、おばさんの手を煩わせることはありません」
助手のように里香の隣に控えていた母さんの申し出に、里香は真剣な表情で手元に集中したままそれを断る。
里香が一所懸命に料理する手元の近くには、レシピらしき何かが書かれた紙が置いてあったりする。
バレンタインデイにさほど興味は無いだろうが、料理することそのものは割と好きな母は、
少し残念そうに、しかし同時に里香を頼りにしているといった様子で頷く。
「そう? ……うん、そうね、里香ちゃんなら大丈夫よね。
 じゃあ、お友達と約束があるから出かけてくるわね。お夕飯はちょっと遅くなっちゃうかも」
ハンドバッグを手に提げ、上着を着込み、行ってきますと言う母さんは、家に残る僕と里香に手を振る。
「んー」
「いってらっしゃい」
テーブルの上の新聞を捲りながらの僕は適当に、里香は一度手を止めて雪乃を送り出した。
こうして、今家の中にいるのは、僕と里香だけになった……。
僕は目が覚めてくるのと同時に、ふと空腹を感じてきた。
一面とテレビ欄中心に読んだ新聞を手放して、所定の場所から食パンを取り出し、トースターに入れてつまみを回す。
そんなことをしている僕の背中に、里香が声をかける。
「裕一、お母さんが出掛ける時にはちゃんと、いってらっしゃいって言わなきゃダメだよ?」
耳の痛いお説教を食らいながら、僕は飲み物も準備しようとした。
「わかった。里香がそう言うんなら、次から気をつけるよ」
冷蔵庫から冷えた牛乳パックを取って、コップに注いだものを飲みながら、僕は里香に近づく。
「へぇ、よくわかんないけど、本格的かもな」
里香の背後から、彼女の手元を邪魔しないように覗きながら、僕は感想を述べた。
里香が包丁で刻んでいるのは案の定チョコレートで、ふたつのボウルにはそれぞれ、
細かくなったカカオチョコとホワイトチョコが入れられていた。
「心配なら、そこで見てて」
首を真上に向けて、里香が呟くように伝える。
里香を見下ろしていた僕とばっちり目が合ってしまう。
なんとなく気恥ずかしくなって、僕はコップを持っていない手を里香のつむじに添え、
壊れものでも扱うかのような手つきで、そっと押して前を向かせた。
「ずっと立ってて、喉渇かないか?」
会話の糸口が欲しくて、僕はそう言った。
「……少し」
「牛乳でいいかな?」
「うん」
僕は新しいコップに牛乳を注いで、里香の邪魔にならない位置にそれを置く。
ジャムを塗ったトーストをかじりながら、僕は新聞を捲る。
「里香、そういやお昼ご飯は?」
同年代の男子相手なら、「昼飯」という言葉を使ってしまうところだけど、
流石に里香相手だと僕の言葉使いも変わるのだった。
「食べてきたよ。肉じゃが作ったのがそこのお鍋にあるから、裕一はそれ食べてね」
なんだか至れり尽くせりの里香の言動がとても愛おしくなって、自然と感謝の言葉が口を突いて出てくる。
「お、サンキュー! わざわざつくってくれたのか、なんだか悪いな」
すると、里香は小さな声で呟くように言った。
「……花嫁修業の一環、だから……」
ぽとん。
僕が囓りかけのトーストを思わずテーブルに落とした音が、キッチンに響いた……ような気がした。

                §  

朝食と昼食をいっぺんに取った僕は、スウェットから、もう少し里香の前に出られる服に着替えて、キッチンに戻る。
キッチンに戻ると、さっきまで僕が座っていた席に座り直し、里香のチョコが完成するのを待つのだ。
結局のところ、僕は里香の望んだように動いてしまうのだ。
湯煎で溶かしたチョコレートの甘い香りが、台所の中にほのかに漂う。
聞こえるのはお互い、僕が部屋から暇つぶしがてらに持ち出した漫画のページを捲る音の合間合間に、
里香の操るスプーンがボウルにぶつかる音くらいだった。
「ねぇ裕一、あーんして。あーんって」
そんな声が急に聞こえて、漫画を読む為に下を向かせていた顔を上げると、里香が目の前にいた。
(……あ、あーん……)と、椅子に座ったまま口を開いた僕に、
シンプルなエプロンの裾をひらりと翻して寄って来た里香は、チョコをたっぷり掬ったスプーンを差しだす。
僕が銀のスプーンをくわえ、頃合いをみて里香はそれをそっと引き抜いた。
僕の口の中には、チョコレートの甘さ以外にも、何かくすぐったい甘みが満ちていくようだった。
「……おいしい?」
純真無垢な瞳をして僕を見る里香に、ちょっとだけ意地悪がしたくなってしまう。
「ん。でもこのままだと、売ってるのを溶かして混ぜただけの気もするような」
「……それはそう…だけど、ちょっとひどい」
「お、怒るな里香。冗談だって、冗談」
実際は色々な手がかかっていることは、里香の様子を見ていればわかるのだ。
僕が苦笑しながらそう謝ると、頬を膨らませていた里香は、僕の手から本を取り上げた。
そして、テーブルの上にそれをキッチリ閉じた状態で置いて、くるりと背を向けてチョコレート作りに戻っていく。
仕返しのつもりなのかもしれないが、里香が貸してくれるような文章ばかりの本でもないから、
すぐに読んでいたページを見つけられることは出来た。
少しすると、チョコレートを型に流し込んで、冷蔵庫に入れ、ミトンを外しながら里香が再びこちらにやって来る。
「これ、余ったから食べてもいいよ」
溶かしたカカオチョコとホワイトチョコを、ふたつのマグカップになみなみに注いで、
クッキーや小さくちぎった食パンを乗せた皿と一緒に、テーブルの上に置く。
いよいよ、後はチョコが固まるのを待つだけになった里香は、僕の膝をぺちぺちと叩く。
僕は、それ合図にして、足を伸ばして座りなおした。
すると僕の太股に手をつき、里香はそうっとそこに腰を下ろす。
「重くない?」
「別に。大丈夫」
かと言って、歳の離れた小さな子どもではないのだから軽いわけでもないが、
苦しくはない、心地良い温もりを持った重みだった。
次いで、背中を預けられて、胸に里香の頭が擦りつけられる。
チョコレートの甘い匂いと、黒髪が含む体臭とシャンプーの匂いが混ざり、僕の鼻をくすぐった。
若干身を屈めて、里香の頭に顎を乗せる。
里香を囲むように腕を回し、「読みにくい」なんて言いながら、僕は漫画の単行本の続きを読もうとする。
すると、里香が僕の腕にちょんと手を置いて僅かに伸び上ろうとしたので、
僕は腕を下ろして更に読みにくくしながらページを捲る。
すると、里香が漫画の単行本について聞いてきた。
「……この漫画、面白いの?」
「まぁ、暇つぶしにはなるかな」
「このキャラクター、さっきも出てきたけど、口調が違う。兄弟なの?」
「いや、別人。作者が描き分け出来てないだけだ」
「……裕一が喋ると、頭がかくかくする」
里香のつむじに顎を乗せたまま喋っていた僕は、
それを聞いて顎を浮かせ、彼女の頭に触れないようにする。
「……だからって、別に嫌だってわけじゃないよ?」
そう言ってから、里香はもぞもぞと身じろいで、体の正面を僕に向ける体勢をとった。
「よっと」
僕は単行本をテーブルに放り投げ、里香の脇を抱えて軽く持ち上げて、座らせ易い体勢をとる。
再び膝の上におろすと、里香がもたれかかって来た。
僕の胸板に頬を擦りつけ、里香は夢を見るようにまぶたを降ろす。
一拍遅れてついてくる髪がふわりと広がり、僕はなんとはなしにそれを掬う。
触り慣れた、手に馴染む髪を一房手に取って、毛先を弾く。
二人分の体重を乗せた椅子の足が、きしりと控えめな音を立てた。
ひやりと冷たい髪を指先で遊んでいると、
里香がますます体を密着させるように押し付け、ぐっと伸びあがった。
膝を立てないように気をつけながら、里香は僕と同じ高さまで背を伸ばして、口づける。
そうっと触れるだけのキスをして、離れ、里香は自分の唇を親指の爪でなぞった。
「……裕一の唇、かさかさ」
なじるように、じっとりした目で見上げられる。実は、里香はごく最近、同じことを僕に言ったのだ。
しかし、僕はすっかり忘れてしまっていたようで、ペロリと舌先で唇を舐めて確かめた。
「季節が季節だから、乾燥してるんだろ」
「男の子ってみんな、そういうところに無頓着でいけないと思うな」
「そう言われても、別に気にならないしなぁ」
「……裕一は、気にしないと駄目だからね?」
里香はポケットからリップを取り出し、キャップを開けて指先で筒の底をくるくると回す。
彼女がそれを僕の口元に近づけると、僕は唇を軽く結んだ。
荒れたそこに、里香はリップを滑らせる。
「かさかさだと、キスした時に痛いの」
「里香の頼みだし、これからは気をつけるよ。なるべく」
どこか、今一つ真剣味にかける口調の僕に、
里香はむうと頬を膨らませた後、頬を火照らせて僕の胸元に額をくっつけた。
「……わ、私がいつキスしたくなってもいいように、ちゃんと手入れしてて欲しいから……」
げほげほ! と僕は里香の言葉に思わず盛大にむせ込んで、赤面しながら「あー」だの「うー」だの唸ってしまった。
それが僕の了解の合図なのを読み取った里香は、僕に頭を預けたままこっそりと笑った。
「あ、でも、外では程々にしてくれよ? あと、他に誰かいる時も。
 お前のそういうところ、無闇に他のヤツに見せたくないからな……」
こういう台詞は、言外に、里香の先程のお願いを聞くつもりなのをわざわざ口にして言っているようなものだ。
「うん……私も気をつけるようにする」
「よしよし、里香は良い子だな」
「うん…… 」
里香はというと、幸せいっぱいな様子で、見えないしっぽをふりふりさせて頷くだけだった。
病院にいた頃とはあべこべに、僕に頭を撫でられるのが里香の好きなことのようだった。
僕が絡むと賢い頭が途端に鈍くなるか、やや危険な方向に鋭くなるか、どちらか両極端になるのが里香だ。
僕に頭を撫でられて、ハートマークをいっぱい飛ばしていた里香だったが、
こうぴったりとくっついていると、もっと素敵なことが欲しくなってしまうらしい。

「おばさん、今日は遅くなるって、そう言ってたよね……?」
うっとりした表情で、里香は僕の手に頬をそっと擦りつけた。
女の子らしい柔らかい頬が、僕の手に包まれる。
「あぁ、夕飯もちょっと遅くなるって、言ってたよな……」
同じく、年相応の衝動が鎌首をもたげてきた僕は、飾り気のない返事をしながら、里香の体に手を回す。
心も身体も、内側から火照ってくのを感じた。
ちゅっと一回、あやすように額に口づけて、僕は里香のエプロンの肩紐を外す。
服の裾を持ち上げて、頭と腕からそれを抜く。摩擦で起こった静電気に、里香の長い髪が何本も跳ねた。
手の平で押さえるように髪を解く里香の脇から手を伸ばし、僕は里香の薄いグリーンの下着のホックを外そうとする。
何回やってもスムーズにいかないそれに苦心している僕を見るのは、里香のお気に入りだ。
前に一度聞いてみたことがあるが、優越感のような、ほんの少しサディステックが混じった感情ではなく、
単純に可愛いと思っているらしい。ま、正直なところはわからないのだが。
さて、やっとそれを外せた僕が、ブラを隣の椅子に放る間、自分の格好を改めて見下ろした里香は、
「……これも、裕一の好みなの?」
そう、少し呆れたように零した。
「男のロマンってことで、見逃してくれないか……?」
僕はそう言い訳することしか出来なかったが、その時点で、またもう一つ良いことを考えついていた。
二の腕でかろうじて留まっているエプロンは剥き出しの胸に申し訳程度に引っかかり、
里香の肌は冷たい空気に晒される。
僕は里香の肩紐を掴み、エプロンを直そうとする里香の背中に手を添えて、
寄りかかるようにして、テーブルの上に置かれたマグカップを手に取る。
一緒に置いてあったスプーンで中身をかき混ぜ、掬ったホワイトチョコを一口里香に食べさせる。
そして、僕は新たにチョコを掬って、里香が直したエプロンを引っ張って再びはだけさせ、それを彼女の胸の上で傾けた。
「……ますます、マニアックだね」
薄くクリーム色がかかったホワイトチョコが、
二つの膨らみに別れる直前の部分に垂らされるのを見て、里香は僕の服をきゅっと握る。
「……食べ物を粗末にしたら駄目って、習わなかったの?」
「覚えてないな、俺はバカだから」
「確かに裕一はバカだけど、バカは関係ない」
ぬるくなったチョコレートが、谷間にとろりと流れ落ちる。
もう一掬い、今度は隆起に差しかかるか否かのところで、横に線を描く。
つうっと流れていく白いチョコは、里香をむずがらせた。
たっぷりと垂らしたチョコレートを、裕一はスプーンの背で円を描くように広げていく。
冷えた銀がチョコ越しに肌の上を滑る度、里香の頬は徐々に赤く染まっていった。
肌の色とはまた違った白が塗りたくられた控えめのサイズの乳房に、
僕が指で触れると、それまで大人しくしていた里香が息を詰まらせた。
さっきまでの無機質なスプーンとは違った、わずかに荒れた指先が里香の胸の輪郭を撫でる。
「ふは……」
里香の唇から熱を持った息が吐き出される。
ぱくん、と僕が不意に二つの頂点の内の一つを食むと、投げ出されてぷらんと椅子の外に垂れていた里香の爪先が跳ねた。
「ひゃん!」
僕の方至って簡素な感想を述べる。
「うん、甘いな」
頬に触れる髪を伝うようにしてすぐ上を見上げると、顔を真っ赤にしている里香と目が合った。
ばちんとロックされたようにお互い固まってしまって、
たっぷり十秒ほど見つめ合ってから、大慌てで僕が余所を向く。
していることがことだから……というのはもちろん、
普段やられ役に甘んじて里香にいいようにされている自分が、
反対に彼女をいいようにしていて、且つ特に抵抗もされずに受け入れられている現状が妙に気恥かしい。
僕の前ではいつも強気な里香が、今だけは顔を真っ赤にして唇を歪め、
迷子のような不安げな顔をしているのも、もうなんだか駄目だ。
はぁ……と里香が詰めていた息をそろりと吐き出した。
それをきっかけに、僕は里香に向き直る。
しかし、今更ながら自分のしたことが恥ずかしくなって、なかなか動き出せない僕に対して、
里香はもじもじしながら僕の服の裾をつまんだ。
「………裕一」
「……えっ‥‥と。里香は……どうしたい?」
里香に名前を呼ばれてやっと、僕は彼女に聞いて仕切り直す。
「……ゆ、裕一の好きにすればいいじゃない?」
「せっかく聞いてんのに、欲がないな」
「……私は、裕一とこうしているだけで、幸せだから」
素面では言えないような、里香の殺し文句に中てられ、僕はぐうっと押し黙った。
一方、軽く握った拳を口元に持っていって何か考え事をしていた里香は、
「……あ、あった。一つだけ」
握った手を緩め、僕と目を合わせた。
「なに?」
「……裕一のホワイトチョ――」
「女の子がそんなこと言うんじゃありません! めっ!!」
ぱちん、と小気味のいい音を立てて、僕は片手で里香の口を塞いだ。
「あっ、ごめん」
思ったよりも勢いがついてしまったようで、里香がきゅうっと大きな目を細めた。
手を離すと、言葉を遮られて拗ねたのか、
それとも驚かせられたからか、里香はむすっとしてそっぽを向いた。
まずい、機嫌を悪くしたか、と僕が思うよりも先に、
里香はぴんと思いついたように目を僅かに大きく開いて、動き出した。
僕が履いているボトムに手を伸ばし、前をくつろげる。室温に自分の分身が晒され、僕は身震いした。
次に、テーブルの上に放っておかれていたマグカップを取り上げる。
「え……ちょ、待って待って!」
スプーンをカップに差し入れようとすると、僕に両手首を少し強く掴まれ、里香は動きを止められる。
「今から何するつもりなんだ」
「デコレーション」
清々しいほどにきっぱりと言い切る里香に釣られて、一瞬承知しそうになる僕だったが、ぶんぶんと首を横に振る。
正直、里香にしたことが、こういう形で自分に返って来るとは思いもよらなかった。
「………チョコバナ」
「だから言うなって!里香、お前を、そんな下ネタを言う子に育てた覚えはありませんっ!」
「さっき、好きにしていいって言ったのに……それに、裕一を困らす為なら、下ネタだって言うよ」
「だからってなぁ……」
僕は頑なに拒否しようと試みたのだが、
「………」
肩を落として俯き、スプーンでくるくるとチョコレートの水面をかき混ぜ、
いみじくもその合間合間にちらりと見上げてくる里香に、
「………だーっ! わかったよ、もう、里香のしたいようにしてくれ!」
あっさりと折れてしまった。
途端に里香はこくんと頷き、スプーンを持ち上げ、もう片方の手で僕の一物の中心を支えてチョコレートを垂らす。
里香の柔らかい手と、ぬるくなりかけているチョコレートの滑りに僕は眉を寄せる。
「なぁ、里香、これ何か意味あるのかな?」
「……あんまり。苦いし、しょっぱいし、苦しい」
だからチョコを使うのか、というとそういう訳ではなく、
それは好奇心とささやかな「仕返し」から来るものであって、今回限りの話だ。
「じゃあなんで」
すぐには答えず、里香は裕一の太股から下りて、床に膝をつく。
里香の頭がぶつからないように、僕は行儀悪くテーブルに足をかけて押しやった。
「……裕一がこうされるのが好きだから……。私に」
瞳を伏せがちにしてそう言い、里香は小さな口で、ちゅっと可愛らしい音を立てて、チョコバナナと化した一物に口づけた。
「……!」
僕にとって、今の里香の言動は奇襲そのもので、しかし、彼女は僕がどう反応したところでちっとも気にかけようとはしないだろう。
里香は柔い唇でそっと先端を挟み、突き出した舌で鈴口のくぼみをえぐるように舐める。
絹のようにさらりとした髪が頬にかかり、それを邪魔がって耳にかける艶めかしい仕草にどきりとして、
僕は彼女が辛うじて見えるぎりぎりまで目を細めた。
熱い息と舌で溶けだし、奥深く飲み込んで行くに連れて解け剥がれていくチョコレートが、里香の唇をブラウンに彩る。
「んっ……む……ちゅぱ、ちゅぱ」
飾り気のないリップで塗られ、桃色をしていた唇が汚れていく様に、僕は目を離せなくなる。
自分が里香を汚しているという感覚が、背徳的で淫靡に見えてしまったからだ。
更に続く愛撫で溢れてくる唾液により、そのチョコの口紅も、雫が垂れるように唇から顎へと滴っていった。
最初は甘かったのが、デコレーションも取れてだんだんと苦味が増して、里香は思わず声を漏らした。
「うっ……っ……!」
ぎゅうと固く目をつぶって、両手で揉みほぐしながらますますそれを深く咥えこむ。
舌をぴんと尖らせ、裏筋に突きつけて、奥から手前へと溝を掘るように強くなぞり上げる。
里香の行う行為の一つ一つに、身体の中の熱が高まっていくようだった。
「里香、口外した方が」
荒くなる息を極力抑え、僕は里香の頭に手を置いた。
しかし、彼女は小さく頭を左右に振って、より一層深く、温かな口内の壁でそれを包み込んだ。
耐えられそうにない。僕は慌てて、里香の頭に添えた手をむこうへ押しやって彼女から離れようとする。
しかし、それは却って、柔らかく湿った粘膜に己を押し付け、更には強く擦りつけることになってしまった。
瞬間的に、かなり強い快感が加えられてしまったのである。
「……ッ!」
ビュルッ、ビュクッ!
押し退けられ、咄嗟に口を開いて僕の一物を離した里香の顔面を縦断して、熱い『ホワイトチョコ』が飛び散った。
何が起こったか瞬時に理解できず、自分の頬や鼻先に指で触れる里香はもちろんとして、
そんな彼女を見下ろす僕までもがきょとんとする。
数秒が過ぎてからやっと、
「悪い!」
手を伸ばして、食器棚のガラス戸の前に立てられているキッチンペーパーを乱暴に巻き取り、
千切って、僕は里香の顔に押し当てる。
ゴシゴシとやや強く拭きとられるのを、里香は顎を上向きにして僕が綺麗にしやすいようにして、
されるがままになって待っていた。
一通り里香の顔に付着したものを拭った僕は、それをくしゃくしゃに丸めて、ゴミ箱に放る。見事命中。
続いて、床に太股の内側をべったりとくっつける体勢で座り込んでいるままの
里香の脇に手を差し込み、引きずり上げようとする。
……のだが、里香は床に膝をついてからは僕の助けを借りることなく自分で、椅子に座る僕の膝に跨り
―――その肩に手を置き、更に伸び上って口づけをしてきた。
甘えてくる里香に、僕はなんの抵抗もせずに応じて、けれども舌が絡み合った瞬間にそれを悔やむことになる。
もつれ合わせた舌は、どろりとした白い液体を共有する。
里香の細い肩を思わず両手で掴んで、ほんの少し力を込めて自分から離す。
唇が離される直前、里香は舌の上に残っていたわずかな残骸を、
持ち主に返すように僕の口内になすりつけた。
「ウッ……!」
そこに塗られた苦味に、僕は顔をしかめる。
顔にかかってしまった時、里香は小さく、
それでも確かに口を開けていたから、そこにも侵入してしまっていたらしい。
まさか、自分が出したものを口移しで飲まされるとは思っていなかった僕は
流石に里香を睨むが、彼女はくすくす控えめに笑うだけだ。
まるでいたずらが成功した子どものようで、これでは口でとやかく文句をつけるのが馬鹿らしくなってくる。
唇を歪めていた僕は、不機嫌な顔のままに里香をひょいと抱き上げて、テーブルの上に座らせた。

里香の体を挟むように両手をテーブルにつき、僕がぐっと身を倒すと、
彼女もそれに合わせて背中をつけざるを得ない。
テーブルに上半身だけを預けた里香の、垂れた足に僕は手を這わせる。
「……仕返ししたいの?」
冷えた指先に触れられ、爪先をぴくりとさせて、寝転んだまま里香は僕と目を合わせる。
「ま、そういうこと」
膝から太股を辿り、僕は里香のスカートにシワを作った。
片膝を持ち上げ、里香の爪先はテーブルの縁にかけられる。
次に、里香の飾り気の無いショーツを、乱暴にならない程度に剥ぎ取り、恥丘を露わにしてやる。
そして、マグカップに浸し、チョコレートをたっぷりと絡めた指先で、僕は里香の秘裂に触れる。
「っ……」
肌が泡立つ感覚に、里香は声にもならないような短い息を漏らす。
形を確かめるように周りをなぞるだけだった指が、チョコとはまた違った透明でとろみのある蜜を捕らえた。
「……あっ」
割って入って来る僕の指先に、里香の肩がびくんと跳ねる。
チョコレートをすりつけるように内側を丹念に掻き回され、その度に里香の身体に熱が溜まる。
触れられているところから背筋を通って、頭部へと駆け抜ける喜悦に浸り、里香はだんだんと溺れていく。
「………い、ぅうん…」
ゾクゾクする背中を押さえつけたくて、しかし反対に背筋を突っぱねて体を反らせてしまう。
テーブルの縁に引っかけていた足を伸ばし、無意識の内に上へ上へと逃げようとする里香の腕を、
塞がっていない方の手で押さえつける。
指を抜いて、僕は両手で里香の腰を捕らえた。そして、問いかけた。

「……いい?」
唾をゴクリと飲み込んで、上下に動く僕の喉仏に、里香は自分だけでなく僕も昂ぶっていることを知るだろう。
「……ど、どうぞ」
顔を真っ赤に染め上げて、そのくせ急にあらたまった言い方をする里香が、
可愛くもおかしく見えてしまい、思わず頬が緩む。
途端にムスっとした表情で睨まれるが、色づいた頬のままでは全く効果がない。
どこからともなくこみ上げてくる笑いをなんとか抑えて、僕は里香のほっそりした腰を掴んで、テーブルからずり下ろす。
不安定な体勢を支えようと、里香は僕の腕や肩に絡めるように手を伸ばし、体重も預けてくる。
そして、僕と里香は少しずつ、一つになった。
「ふーっ、くっ………」
「あ……や……ッ……んっ!」
僕の心の熱を引き移すしたかのように、熱く大きい一物が里香の膣に差し込まれると、彼女ははくはくと浅い息を繰り返す。
「……ゆういち……あっ……!」
里香の白い額に滲む汗が目につき、それを沸き立たされるように僕は里香を突き上げた。
すると、里香の方も反応するかのように僕を締め付けてきてくれる。
「りか……りかっ、里香……!」
彼女に呼応するように、乱れる息継ぎの合間、熱を吐き出すように僕は呟いた。
どん欲になった僕の鼻孔には、里香の体臭と里香の髪のシャンプーの匂いと、チョコレートの香りが混ざり合って入り込み、
それはとても甘く感じられた。
同じように、幸福と快楽との感触がごちゃまぜになって来ていた。
ひたすらそれを里香と一緒に、高いところまで持って行くことしか、今の僕の頭では考えられなかった。
それは里香も同じようで、涙ぐみながら必死に腰を上下させ、より深く僕を感じ取ろうとしていた。
「ゆう……いち、ゆういち!はぁ……んっ……!」
そんな里香の様子が嬉しくて、僕も里香を更に抱きしめ、ズンと里香を突き上げる。
二人が繋がっている部分から水音がする頃になると、僕はそろそろ限界を迎えそうだった。
「りかっ……、俺、そろそろ限界かも……」
僕の言葉に、里香はコクコクと頷くと、自分の体重を、繋がっている部分を中心に預けてきた。
僕の分身はより深く出し入れされ、ピンと張りつめていたモノがその衝撃で今にも切れそうにもなる。
「里香、俺……もう出る……!」
僕はそう言うと、里香の一番深い所に分身を突き入れて、そこで激しく震えながら果てた。
温かい里香の中に、更に熱いマグマのような僕のモノが容赦無くぶちまけられ、快感で白く染め上げていく。
「ゆういち……わ、わたしも、もう……!!! ひあっ、あっ、ああッ!あッあああ………!!!!」
里香もほとんで同時に達したらしく、きゅうんきゅうんと切なげに僕の分身を締め上げた。
それに応じて、僕の分身も出すべきものを一滴残らず吐き出していた。
凄まじい快感に僕と里香は思わず、互いの身体を抱き合っていた……。
……しばらくしてから、少し落ち着きを取り戻した僕は、里香の瞳から透き通ったものが溢れ出していたのに気づいた。
すると、里香は、『しあわせ』だと、そう言わんばかりの表情をしながら、うっとりとまぶたを伏せた……。
……この後片付けは、母親が帰ってくる前までに済ませておけば良いのだから、
僕はもう少し、この、とてもつもなく甘い余韻を里香と一緒に味わっていることにした……。
                  
                 §

……チョコレートよりも甘ったるい匂いが凝縮されたキッチンの空気に色を付けるとしたら、きっとピンク色が相応しいだろう。
「ここじゃ、今日はマトモに夕飯食べられそうにないなぁ……」
散らかし放題にしていたテーブルを片付けながら、僕はふとボヤく。
キッチンに不都合があって使えないというわけではなく、
さっき里香とあんなことをした後では、夕飯時に母親とこの食卓についた際に、平気な顔をしていられないという意味だ。
いっそのこと、お友達と外食でもしていてくれれば都合が良いのだが、残念なことにそういった連絡は入っていない。
掃除している僕の横では、くちゃくちゃになったエプロンだけをまとった姿で、里香が冷蔵庫を開けていた。
「里香、とりあえず服着た方が良いって。風邪引いちゃうぞ」
ま、そういう僕もろくな格好ではないのだし、チョコが気になる里香の気持ちもわかるのだが。
冷蔵庫の扉を薄く開けて、隙間から覗くように中を見て、里香はぱあっと顔を輝かせた。
「お、できたのか?」
床に転がったマグカップを拾い、そこから零れたチョコレートを雑巾で拭き取っていた僕が、
背後から覗きこもうとするが、素早く里香は冷蔵庫を閉めてしまった。
カララン……と、扉を閉めた拍子に、瓶同士がぶつかる可愛らしい音がする。
「……まだ秘密だからね。楽しみにしてて」
里香は控えめに、けれど心底楽しそうに微笑んだ。

「……私の、バカ」
しかし一転、里香は唇をへの字に曲げ、しょんぼりと俯いた。
身なりを整えて、キッチンも片付け終わった二人はそれぞれ、
里香はシンクに立って最後の仕上げを、僕は椅子に座って彼女の背中をぼんやり眺めていた。
「どうしたんだ、里香?」
僕が少し心配して尋ねると、里香は、
「……ラッピングの材料、家に忘れてきたみたい」
と呟いた。
椅子を軋ませて立ちあがり、僕は里香の隣に並ぶ。
「何言ってるんだよ、もう出来てるじゃないか」
恥ずかしいくらいに直球なハートの形をした真っ赤な箱は、里香の前にきちんと蓋をされて鎮座している。
一目見た分には、別に足りない部分は無いように思える。
けれど、里香は困り顔で言う。
「……金と銀のモールを巻くつもりだったのに、これじゃカードが挿せないの」
ふたつに折り畳まれた、小さなメッセージカードを手に、里香は困りきる。
今から取りに帰るか、急いでどこかで買ってくるか。
里香はそんな風に考えを巡らせているらしい。
すると僕は、良いアイデアが浮かんで、里香の前髪にそっと手をやる。
引っ張られるようにしてこちらに顔を向けた里香に、
僕はたった今抜き取った、彼女のサイドに結ばれていた白い髪留めのゴムを差し出す。
「これでいいんじゃないかな?」


……緑から青にかけてのグラデーションで、空の縁が彩られていた。
いつもはゴムで止めている筈の前髪を揺らして、
里香は薄暗い空に瞬きだした星を眺めるふりをして、ゆっくりと歩く。
それに合わせて歩いている僕の足の運びも、普段に比べて随分と遅い。
会話もやや飛び飛びで、声や言葉を伴わない白い息がほとんどだった。
「ここでいいよ」
里香の自宅のすぐそこまで来たところの曲がり角で、彼女は立ち止まる。
手に提げていた鞄の口を開いて、中から慎重な手つきで箱を取り出す。
「裕一」
白い髪留めのゴムは、今は漆黒の髪ではなく、赤いハートのケースを慎ましく飾っている。
ハートのとんがりが僕の方を向くように、里香は両手でそれを渡す。
結わえ付けられたゴムと箱の間に挟まれた小さなカードには、どんな言葉が書かれているのだろう。
「……私の気持ち。受け取ってください」
寒さのせいだけでなく、別の理由ででも頬を染めている里香からの贈り物を、
僕はポケットに突っ込んでいた手を両方抜いて、それをしっかりと受け取った。
僕にとって、世界で一番大切な人からの贈り物を。
「………ありがとう。里香」
僕がしっかり目を合わせてそう言うと、里香はふんわりと微笑んだ。
その微笑みは、僕にとって、どんなチョコレートよりも甘く感じた。

終わり。





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