咳をしてもふたり


……どうやら、風邪をひいてしまったらしい。
窓から差し込む日光が、外出するにはピッタリの快晴だと教えてくれているのが恨めしくなる。

実は、昨晩からどうも調子が悪いとは感じていて、
(どうか、これ以上体調が悪化しませんように……!
 アマテラスオオミカミ様!トヨウケノオオミカミ様!どうかご加護を……!)
と、里香から以前その名前を教えてもらった、
普段願いもしないお伊勢の神様達に祈りを捧げながら床に就いたのだが……。
喉の痛みのせいで早く起きたところ、案の定これだ。

(まったく、ツイてないなぁ……)
そりゃもう見事に頭が痛いし、鼻水が出るし、喉が痛いし、顔が熱いし、これは完璧に風邪だ。
くしゃみがあまり出ないのが、せめてもの救いという奴だろうか。
発熱からくる悪寒を感じながら、他にすることも無く自分の部屋のベッドの中で寝ていた僕は、
脇の下に挟んだ体温計が鳴るのを待ちつつ、つくづく残念だと思った。

……何故つくづく残念なのかというと、今日は三連休が始めの金曜日で、
本当なら里香と一緒に電車に乗って、街へデートに行く予定があったからだ!
里香とのデートッ!! それを棒に振ってしまうとは、僕にとって計り知れないショックッ!
(あぁっ、この日の為にせっかく色々と下調べしたのに、
 体調管理が出来ないせいで全部無駄になっちゃうのかぁああぁぁ〜〜〜…………!!)
身を切るような無念さは、ある意味風邪の症状よりも辛い。
……そういえば、1年近く前にも、進級がかかった追試の当日に四十度近い高熱を出してダウンして、
テストを受けることすら出来ずに留年が決定してしまったことがあったっけ……。
というか、そのせいで僕は、本来なら高3のところ、未だに高2なのだ。
(まぁ、おかげで里香と同じ高校にいられる時間が延びたのは、正直嬉しかったけどさ)
そんなことを考えていると、先ほどから左脇に挟んでいたクリーム色の体温計が、
ピピピッ、ピピピッとやや籠もった音で鳴るのを聞いた。
(どれどれ、どんな感じかなっ……と)
僕は毛布を肩までかけたまま、
自分のパジャマの中に右手を突っ込んで、左脇の中をまさぐって体温計を取り出す。
少なくとも平熱でないことだけは確かだったが、
出来れば37度台であれば良いという気持ちで、体温計の液晶画面を目の前に持ってきて見る。

[38.5℃]

やれやれ、四捨五入したら39度じゃないか。
立派に熱が出てしまっている。

……ふと垂れてきた鼻水をすすると、なぜか今度は涙が出てきたので、
鼻水と一緒にティッシュで拭き取って丸めて、近くの床に置いてあるゴミ箱に投げ入れる。
(よし、命中だ! ……ってこんなことしてる場合じゃないな)
なんにしろ、里香とデートに行く約束は、もう果たせそうにない。
(仕方がない、里香にメールするしかないか……)
僕は気が進まないながらも、ティッシュ箱と同じように枕元に置いておいた携帯電話を手に取り、
今の僕が置かれている状況を知らせるメールを新規作成して、里香へ送った。
風邪をひいているせいもあって、そんな作業は余計に辛かったが、
早く送らないと、里香に迷惑がかかるために急いだ。もっとも、待ち合わせの時間には余裕があったのだが。
(よし、送信と‥‥)
送信ボタンを押した僕は、ふぅと溜息を付き、力なく天井を仰ぎ見た。
携帯は折り畳まないまま、枕元に置いておく。
……後は、これで里香から返信が来て、僕が謝って、それで後は不貞寝するだけの1日が過ぎていくだろう……。
(早く気付いてくれればいいけどなぁ)
里香は高校生活に十分に慣れてからようやく、最近の若者並みに携帯電話(ちなみに僕と同じメーカーのもの)を買ったが、
今では取り扱いに慣れていて、僕との電話やメールのやりとりはそこそこしている。
だから、里香がメールに気付かないまま、待ち合わせ場所の駅前に行ってしまうことは考えづらかったが、
万が一ということを想定する必要はあった。
(さて、やることはやったし、トイレにでも行くかぁ‥‥後は、何か冷たいものが飲みたいな)
気が抜けてくると、今まで無意識に抑えてきた生理的な欲求が現れてきたので、
僕はベッドから上体を起こし、布団から這い出て、床に立つ。
やっぱり足がフラフラしていたが、
母親が朝昼兼用の食事(昨日の晩御飯の残りのけんちんうどんと、おにぎりと、朝食用ヨーグルト)だけを用意して、
朝から早々と仕事に行ってしまったので、後の自分の看病は自分でしなくてはならないのだ。
(そういや、風邪薬も探しておかなきゃなぁ……どこにやったっけか?)
そんなことを考えていると、コホンコホンと、突発的に咳が出た。
咳をしてもひとり、とはこういう状況のことを言うんだろうなと、つくづく思った……。

―――里香にメールを送ってから用を足した後、
痰が絡みつきヒリヒリと痛む喉を少しでも癒す為に、
冷蔵庫で冷えていた麦茶を飲んだりしてから再び床に就いたものの、
やはりというか、眠りたくても鼻が詰まって眠れなかった。
(あんまり鼻かむと、後で痛くなるんだけどなぁ)
どうせ眠れないのなら、風邪薬も探しておくべきだった……。
そうも思いながら、また仕方なく枕元に備え付けておいたティッシュ箱に手を伸ばす。
まさにその時だった。


『プルプルプルプルプル〜!』

と、普段あまり鳴らない、メールではなく電話の着信音が僕の携帯から鳴り響いたのだ。
「うおっ!?」
携帯を頭のすぐ近くに置いておいたせいで、その着信音の大きさに驚いてしまったが、
携帯の液晶画面に表示される、かけてきた相手の名前に更に驚いた。

[着信 秋庭 里香]

「えっ……!」
なんと、里香は僕が送ったメールに対して返信するのではなく、
電話をかけてよこしてきたのだ!
僕を心配してくれて直接声を聞きたくなったのか、それともそれ以上に、
僕が約束を破ってしまうことを怒っているのだろうか?
少し不安な気持ちで、僕は着信音を鳴らし続けている携帯を手に取り、
耳に当て、通話ボタンを押して電話に出た。

電話が繋がって、初めて聞こえてきたのは、普段と変わらないように聞こえる里香の声だった。
『もしもし、裕一?』
鈴を転がすような声が聞こえてきて、僕はすぐに返事をした。
「うん、俺だよ」
『はい、こちら秋庭里香ですよ。何か言いたいことがあれば、そちらから先にどうぞ』
ちょっと手厳しいなぁ……。
一呼吸置いて、まずはとにかく、僕が今日のデートの約束を反故にしてしまったことを謝った。
「今日はごめん、こんなことになっちゃってさ……連絡も遅くなっちゃったし」
話す度に少し喉が痛んだけれど、里香と話すためなら構わない。
『もう、今更謝られても仕方ないじゃない‥‥。急に風邪ひくだなんて……』
「………」
里香は怒っているというよりも、僕を心配しているような口調だった。
あぁ、里香に気遣われるなんて、僕はなんて幸せ者なんだろう――。
そんな感慨に浸っていると、里香は雰囲気を変える為か、咳払いをして話を再開した。
『でも良かった。その調子だと、ちゃんと生きてるみたいね?』
今度はちょっと恨み節というか、トゲのある口調で里香はそう問いかけてきた。
「そんな言い方は無いだろ‥‥これでも結構症状が辛くて‥‥ハッ、ハ――ッ、ヴェックション゛!!」
決してタイミングを見計らったつもりはないのだが、
僕は里香と話している最中に、間抜けなくらいにわかりやすいクシャミをしてしまった。
すると、それが里香のツボにはまったらしい。
『あははっ!! 裕一、面白いクシャミの仕方するんだね! おもしろーい!』
電話の向こうで、里香が気持ちよく僕のクシャミを笑う。
『ヴェックションなんて、そんなクシャミ今時中々聞かないわよ! ふふふっ……!』
僕はなんとも言えない恥ずかしさで、顔が風邪とは無関係に火照ってきてしまった。
「笑うなよぉ……こっちは一応病人なんだから」
僕がしおらしくなってそう言うと、里香は笑い声を収めてくれた。
『うんうん、ごめんごめん! ちょっと久しぶりに裕一が面白くって……』

『……あ、そうだ。裕一って今何してるの?』
短い時間に笑い過ぎたせいか、里香は少し間を置いてから、また僕に話しかけてきた。
「ん、何してるって‥‥そりゃあ、病人らしくベッドに横になって、安静にしてるさ。
 わざわざ病院に行くような症状じゃないし、連休で治せるだろうし」
『なるほど、それは良いことね』
里香は妙に素っ気ない返事を返してきた後に、続けて口を開いた。
『あと、おばさんとか、誰か看病してくれる人はいないの?』
他意があってか無いのか、里香の質問が続き、僕はそれに答える。
「いや、母さんはとっくに仕事に行っちゃったし、帰ってくるのも結構遅いってさ。
 だから、もう今日は一日中、俺1人みたいなもんだよ」
喉が痛くて咳払いしたいのを我慢しながらも、僕はそう言い終えたが、
次に僕の耳に飛び込んできた里香の発言によって、嫌でも咳き込むことになった。

『‥‥そうなんだ。それなら、あたしが今から行っても問題無いみたいね』
「えっ……ちょっ! ゴホゴホゴホォッ……来るの!?」
どうやら、里香が今の僕の置かれた状況を聞いてきたのは、
これから自分がお見舞いに行ってもいいかどうかを確かめる為だったらしい。
今日から三日間、学校が再開するまでもう里香には会えないと思っていた僕には、
この展開はとても嬉しい誤算だった。
おまけに、母親は仕事でもう出かけているので、事実上里香と二人きりでいられる。
まだ1日は始まったばかりだし、あんなことや……こんなことだってゆっくりと出来るじゃないか! 
もっとも、それに関しては僕の体調と、里香の機嫌次第だとも言えるのだが。
(うおおおっ! とにかくっ、災い転じてなんとやらとは、正にこのことだああぁぁ………!)
そんな風に嬉しさを噛み締めながら無意気に鼻をすすると、
僕がなかなか反応を見せないので、里香が不審に思ったらしく、
『何? どうしてそんなにむせてるのよ?
 ……もしかして、暇つぶしに、私に見せられないようなモノでも見ようとしてたの?』
と、ちょっと声にドスを効かせて、訝しむような口調で聞いてきた。
こんなことで里香の好感度を下げるわけには行けないが、
あながち間違いでもない彼女の指摘に、僕は少し慌てて切り返す。
「いや、だから……その手のモノは、里香とちゃんと付き合い始めてから、ちゃんと全部捨てたじゃないか!
 里香だって俺の部屋を散々探り回ったし、可燃ゴミに出すとこも見てただろ?」
『ふーん、それならいいですけど。まぁ、裕一にはあたしがいるんだしねぇ』
慌ててしまったのがいけなかったのか、里香は少し冷淡な態度を取るが、
彼女の発言からは微かに、淫靡な下心も見て取れた。
これなら、こっちも素直に本心を言えば疑いはこれ以上かけないでくれるだろう。
「ホントにその通りだよ。だから、里香が見舞いに来てくれるなんてさ、嬉しくて仕方ないんだ。
 それに、予想外だったしね。もう、月曜まで里香に会えないと思ってたからさ……。」
『………』
僕の発言がまんざらでもなかったらしく、里香は少し間を置いて話しを結論に持って行った。
『まぁ……そういうことにしといてあげるわ。
 とにかく、今からお見舞いに行くから、裕一は大人しく安静にして待っててよ』
「わかった。あと何分くらいかかりそう?」
『うーん、三十分くらいだと思うわ』
僕は、部屋の壁に掛けてある、五分くらい遅れている時計に目をやって、
里香が来るであろう時刻を算出してから、里香に返事をした。
「了解。どうせ俺は安静にしてるだけなんだから、あんまり焦らなくてもいいよ」
『うん、わかってるわよ。あと、そっちに着いたらピンポーンって鳴らすから、鍵開けてよね』
「よし、任せとけ」
『じゃ、またね〜』
「あぁ、待ってるよ」
僕がそう言うと、里香の方から電話が切られ、僕はまた部屋の中で1人になった。
けれど、もう少し待てば、里香がお見舞いに来てくれる――!
そのことは、僕の心身の色んな部分を、激しく膨らませずにはいられなかった。

―――里香との電話が終わってから、僕はしばらくそわそわしながら、彼女を迎える準備をしていた。
その準備というのを具体的に言うと……、
たとえば、ベッドの上の布団をちゃんと敷き直したり、
落ちている体毛を取るために、ガムテープを輪っか状にして右手の指に巻き、部屋の絨毯の上を軽くペタペタしたりすることだ。
もちろん、風邪気味なのであまり作業ははかどらないが、気を紛らわせるのにはちょうど良かった。
里香から、大人しく安静にして待っててと言われた病人である僕が、
お見舞いに来る里香に対してこんな風に気を遣うなんて、よく考えればおかしな話だと思い、苦笑した。
(でも、せっかく里香が来てくれるんだからな……)
そう思いながら絨毯をペタペタして、またガムテープに自分の髪の毛を貼り付けるのに成功した時のことだった。
ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴ったのだ。
(お……きたきたきましたよ!)
僕は右手に巻き付けていたガムテープを、急いでポイッとゴミ箱に捨てて、
そのままの勢いで一階の玄関へと向かった。
僕は熱で少しフラフラしながら玄関へ駆けつける。
すると、曇りガラスの向こうには、長い黒髪を腰くらいまで垂らした、小柄な女性の姿が見えた。
間違いなく里香だ!
そう思った僕は、急いで玄関の鍵を開けて、
次に引き戸をガラガラと音を立てながら開けた。
するとそこには、素直に可愛いというべきか、明らかに余所行きの服装をした里香がいた。
髪型こそ普段通りだけれど、退院した時に持っていたバッグを肩にかけていたり、
水色のヒラヒラとした服を着ていたりして、とても可愛かった。
そんな彼女の姿に一瞬見とれてしまったせいだろうか。
顔を合わせてまず始めに口を開いたのは、僕ではなく里香の方だった。
「ほら、後は自分で運んでよね。ここまで持ってくるの、大変だったのよ?」
(運ぶ?どういうことだ?)
一瞬そう思ったが、その疑問は、
僕に向かっていつの間にかアッパーのように突き出されていた里香の右手を見てわかった。
里香の右手は、ドラッグストアのマークがプリントされた大きな白いビニール袋をぶら下げる形で持っていて、
その袋の重みは、里香の白くて小さい掌に赤い痕を刻みつけていた。
どうやら里香がその袋を、
僕のためにわざわざ運んできてくれたということはわかったので、
とにかく僕はお礼を言いながら受け取った。
「ありがとう、里香」
里香から受け取った袋を手に持つと、男の僕でもやや重く感じた。
当然中身が気になり、その袋を上から覗き込むと、中身が見えた。
「んっ……これは?」
里香が持ってきてくれた袋の中身は、
良く似たような味のする2種類の某有名スポーツドリンクの内、
あまり甘くない方が2リットル入ったペットボトルだった。
どうやら、里香は僕の為に2リットルのスポーツドリンクを買ってきてくれたらしい。
他にも、袋の中には、ピタッと貼って熱をとる冷却シートや、カラフルなのど飴の袋も入っている。
僕の視線が袋の中身に注がれているのに気付いた里香が、
少し胸を張るような口調で言った。
「風邪ひいてるなら、そういうの必要でしょ? 
 ‥‥ホントは何か食事も買ってこようかと思ったんだけど、
 荷物が重かったし、丁度良いのが無かったの」
……普段は生意気で、天の邪鬼なことも少なくない里香が、
僕のためにこんな苦労をしてくれるなんて……!
その事実を噛み締める度に、風邪の熱とは違う熱さが僕の頬を火照らせた。
「重かっただろうに……ありがとうな、里香! 
 買ってくるなら500ミリのでも良かったし、メシなら、母さんが作り置きしてくれてたんだよ」
「ううん、大きいサイズのでいいのよ。あたしもちょっと飲みたかったから」
里香はそう言いながら、僕の隣をするりと通り抜けて、僕の家の玄関に入った。
「あ、持たせておいてなんだけど、よろつかない?大丈夫?」
少し意地の悪い笑みで、里香がそう言った。
「言いたいことはわかるけど、そんなにヤワじゃないと思いたいね」
僕はそう言い返しながら、里香に続いて家の中に入ったのだった。

僕はとりあえず、お見舞いに来てくれた里香を、
2階に上げて僕の部屋に招き入れようと思って、彼女の背を見ながら話しかけた。
「いやぁ、来てくれてありがとな。遠慮せずにあがって……あれ?」
すると、彼女は僕の言葉を無視して歩き、まずは玄関の左隣にある台所の中に入った。
次に里香は何をするのかと思いきや、流し場の蛇口のハンドルをひねり、水を出した。
どうやら、外から家の中に入ったということで、ちゃんと手を洗うらしい。
なお、ウチの台所に手洗い用の石鹸は備え付けられていないが、
里香は台所用洗剤をほんの少しだけ手に出して両手に付け、白い手を擦り合わせて洗い始めた。
里香の服の下から浮かび上がってくる、少し艶めかしい肩や腕の動きと、
下品でない程度のバシャバシャという水音が、里香が手を洗っていることを僕に教えてくれる。
「里香は偉いな〜」
しっかりしているな、と単純に感じて、僕が後ろでそう言うと、
里香はさも当然という口調で手を洗いながら返してきた。
「風邪の予防の基本でしょ。裕一は、こういうことを怠ってたんじゃないの?
 あたしはね、少なくとも裕一の家に来る時には、毎回必ず手洗いうがいしてたはずよ」
「そう言われれば……」
僕が里香と自分の行いの差を振り返ってしばし反省していると、
里香は、彼女の服のポケットから花柄のハンカチを、
細く白い人指し指で摘んで取り出して手を拭きながら、こちらに顔を向けて話しかけてきた。
「まったく、これだから裕一は……。あっ、このコップ、うがいに使ってもいい?」
里香は、台所に備え付けられていたプラスチック製のコップを、
拭き終わったばかりの右手で指さしながらそう問いかける。
「ん? 別にいいけど」
僕がそう言うと、里香はコップを手に取って水道で水を注ぎ、
その水を口に含んで、ガラガラガラガラ……ペッとうがいをした。
その一連の動きを妙に可愛く感じた僕は、風邪気味で喉が痛いのも忘れて感想を述べてしまう。
「里香がうがいするところ、初めてちゃんと見たかも。っ、ごほ……!」
案の定むせてしまう僕は、やはり病人なのだ。
すると、うがいをし終わってこちらに歩いてきた里香は、
僕の背中をトントンと右手で叩いてくれる。
「……ふぅ、ありがとう。だいぶ楽になったよ。
里香は背中トントンするの上手いなぁ」
何かコツを知っているのか、里香が手で僕の背中を叩くと、
自然と息が楽になったので、僕はお礼を言った。
すると、里香は荷物を持っている方の僕の手を取りながら返事をした。
「あたしがママにしてもらってたようにしただけよ。
 それより、早く部屋行こうよ。
 ‥‥こんなの持ったままじゃ、手が痛くなるでしょ?」
大きな白いビニール袋をぶら下げている僕の右手に、里香の小さな白い両手が添えられて、
僕は思わずドキッとしてしまった。
「あぁ……うん。そうだな、早く行こうぜ」
僕はビニール袋の重みと、里香の手の体温の両方を右手に感じながら、
ようやく自分の部屋へと向かったのだった―――。

――――里香と共に自分の部屋へと戻ってきた僕は、
早速、里香の手によってベッドに寝かしつけられ、お決まりの台詞を言われた。
「熱を測って、とりあえず安静にしてなさい。
 ……あんまり勝手に動いて悪化しても、知らないからね」
里香は、なかなか真剣な目つきでそう言った。
もしかしたら、意地悪な里香のことなので、
わざと態度を怖くしていたのかも知れないけれど、それは僕にはわからない。
……とにかく僕は里香から、病人らしい扱いを受けた、ということだ。
そして僕は、体温を測ってと今し方言われたので、
枕元に置いたままになっていた体温計を脇に挟み、
顔の火照りを感じたまま、他にすることもないので目を閉じる。
スポーツドリンクのペットボトルやのど飴の袋は、
里香が勉強机の上に置いておいてくれたけれど、まだ口にする気にはなれなかった。
里香はというと、僕のおでこに冷却シートを貼った後、
勝手知ったる他人の家と言わんばかりに、
僕の看病に使えそうなものを、他の部屋へ取りに行ってしまった。
(まるで、入院してるみたいだなぁ……)
そんなことを考えて、少し以前のことを思い出していると、
おでこに張り付いた冷却シートから伝わってくる、
心地よい冷たさと、若干の心地悪さのせいで寝付けず、僕はやはり閉じていた目を開けた。
すると、ちょうどその時に、僕の部屋の戸が開くガララッという音がした。
僕が戸の方に目をやると、
ガラスのコップ2つとタオルを乗せたお盆を持って、里香が戻ってきた。
「どう? もう体温計鳴った?」
里香はお盆を勉強机の上に置きながら、僕にそう問いかけた。
「いや、まだ鳴ってないよ。
故障はしてないと思うけど、結構古いタイプだしなぁ……っ‥‥!ゲフッ、ゲホッ‥‥!」
調子の良くない喉を使ったせいで、僕は語尾の方で結構大きくむせてしまった。
今の咳で体温計がズレたかも知れないと思って、慌てて体温計を挟み直して、
改めて検温ボタンを押した。ピッ、という電子音が小さく響く。
その様子を見ていた里香は、少し呆れたように、不思議そうに眉をひそめて言う。
「……今更だけど、裕一って、意外と病弱だったりする?
 なんか、一度病気にかかると妙に治りづらいそうだし、
 いつも肝心な時に熱出してるような気がするわね」
里香に言われちゃお終いだな、と思った僕は苦笑しながら返事をする。
「お前が言うな」
「はいはい、そうですね」
どこ吹く風と言った風で里香が流してしまったので、
僕はちょっとだけムッと来て、多分言わなくても良いことまで言ってしまう。
「だいたい、俺がなかなか退院出来なかったのは、入院中ずっと里香に振り回されてたせいだし、
 それに、そっちなんかしばらく前まで、マジで死にかけてた癖に……」
「あっ、そういうこと言うんだぁ……」
僕の言葉に、流石に里香もちょっと頭に来たようだが、
体調の悪い人間の精神状態は彼女もよくわかるのか、言い合いの口げんかには発展しなかった。
こういうやりとりを平気で出来るようになったのは、
僕と里香がじっくり紡いできた信頼関係と、里香の持病がだいぶ落ち着いているおかげである。
里香は、今のやり取りのせいで少し眉根を釣り上げながらも、
勉強机の上に置いた洗面器の水を使って、
今持ってきたタオルを濡らし、ぎゅっと力を込めてしぼりはじめた。
ピチョピチョッという水音が、僕の部屋に響く。
すると、里香の小さくて白い手が赤くなってしまう代わりに、
僕の顔なり身体なりを拭くであろう濡れタオルが出来上がる。
それを右手に持った里香は、僕が寝ているベッドの方に近づいてくる。
「ほら、そんなに布団被ってないで、もっと顔出しなさい。
 あたしが拭いてあげるから……」
蛍光灯の光が逆光となり、里香の顔がよく見えないのが、
何故か妙に色っぽくてドキッとしてしまった。
(俺って単純だな……)
僕はちょっとした自己嫌悪に陥りながらも、
首のところまでかけていた毛布を胸の所まで下げて、里香が顔や首を拭きやすくした。



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